今日も雨やし

ジョナサン・クレーリー 遠藤知巳訳
『観察者の系譜 視覚空間の変容とモダニティ』十月社

観察者の系譜―視覚空間の変容とモダニティ (叢書 近代を測量する)

観察者の系譜―視覚空間の変容とモダニティ (叢書 近代を測量する)

謝辞

第一章 近代と観察者の問題 
第二章 カメラ・オブスキュラとその主体
第三章 主観的視覚と五感の分離
第四章 観察者の技法
第五章 視覚的=幻視的(ヴィジョナリー)抽象化

原註
訳註
訳者あとがき
索引


著者自身のまとめ

本書で私が試みてきたのは、1840年代までに生じた視覚の布置の変動が、どれほど根底的なものであったかを示唆することであった。視覚と近代との相関関係を問題にするのであれば、1870年代や80年代のモダニズム絵画なのではなく、なによりもまず、こうしたより以前の時代を調べてみなければならない。新たなる観察者はこの時期に誕生したのであり、しかもこの観察者は絵画や版画に描かれた人物形象とはちがった存在なのである。われわれは、観察者というものはつねに可視的な痕跡を残す、つまり画像(イメージ)との関係において同定可能である、という前提をとるような思考の訓練を受けている。しかし本書で問題としたのは、そうしたものとはちがう、実践と言説のより曖昧な境界領域(グレイ・ゾーン)のなかに立ち現れてくる別種の観察者なのであって、20世紀のイメージ産業とスペクタクルの総体こそが、この観察者が残した莫大な遺産なのである。視覚においてかつては中立的で不可視の相関項にすぎなかった身体は、今やそこから観察者に関する知が得られるような、ある厚みとなる。視覚のこの触知可能な不透明性、この身体的濃度はあまりにも突然に視界に浮かび上がってきたのであり、それがもたらす帰結や効果の総体をただちに見通すことはできない。ただしかし、ひとたび視覚が観察者の主体性=主観性(サブジェクティヴィティ)のなかに位置づけ直されるやいなや、相互に絡み合った二つの道筋が開かれたのである。一つの道は。モダニズムその他の領域において見出されるものであり、新たに力を与えられた身体から引き出されてくる視覚の至高性と自律性とを、さまざまなやり方で肯定するという営みへと至ることになる。もう一つの道の方は、観察者を規格化し、制御していく過程(それはもともと視覚的=幻視的(ビジョナリ)身体をめぐる知をもとにして生まれてきたものだ)、すなわち視覚の抽象化と形式化とに依拠した権力の諸形態の、さらなる進行へと通じるものだった。われわれにとって重要なのは、同じ一つの社会の領野の平面状にあって、多様な具体的視覚行為がせきする数限りない局所的実践のただなかを、この二つの道が、いまだに交錯し、ときには重なり合いながら現在をも貫いている、その様態なのである。

(p218-219)