『なぜ古典を読むのか』

なぜ古典を読むのか

なぜ古典を読むのか

☆☆☆★★
読んだ。エイナウディ社の編集者でもあった作家イタロ・カルヴィーノが同社の文学叢書の「まえがき」として書いた文章を纏めたもの。恥ずかしながらここに挙げられたほとんどの古典を読んでいないので、カルヴィーノの書評も正直よくわからない。よくわからないのだが、しかしカルヴィーノの読みの深さ、切り口の鋭さがひしひしと伝わってくる不思議な書評集である。そして須賀さんの訳としては、例外的に、ぽくない。そもそも小説ではないので世界観を作る必要もなく、あるいはカルヴィーノの知的リズムに合わせて、いつもよりも率直で硬質に(平たく言って学術的に)訳されている気がする。最初の短編「なぜ古典を読むのか」に14の定義が纏められている。これが実におもしろし。

1 古典とは、ふつう、人がそれについて、「いま、読み返しているのですが」とはいっても、「いま、読んでいるところです」とはあまりいわない本である。

2 古典とは、読んでそれが好きになった人にとって、ひとつの豊かさとなる本だ。しかし、これを、よりよい条件で初めて味わう幸運にまだめぐりあっていない人間にとっても、おなじくらい重要な資産だ。

3 古典とは、忘れられないものとしてはっきり記憶に残るときも、記憶の襞のなかで、集団に属する無意識、あるいは個人の無意識などという擬態をよそおって潜んでいるときも、これを読むものにとくべつな影響をおよぼす書物をいう。

4 古典をとは、最初に読んだときとおなじく、読み返すごとにそれを読むことが発見である書物である。

5 古典とは、初めて読むときも、ほんとうは読み返しているのだ。

6 古典とはいつまでも意味の伝達を止めることがない本である。

7 古典とは、私たちが読むまえにこれを読んだ人たちの足跡をとどめて私たちのもとにとどく本であり、背後にはこれらの本が通り抜けてきたある文化、あるいは複数の文化の(簡単にいえば、言葉づかいとか慣習のなかに)足跡をとどめている書物だ。

8 古典とは、その作品自体にたいする批評的言説というこまかいほこりをたてつづけるが、それをまた、しぜんに、たえず払いのける力をそなえた書物である。

9 古典とは、人から聞いたりそれについて読んだりして、知りつくしているつもりになっていても、いざ自分で読んでみると、あたらしい、予期しなかった、それまでだれにも読まれたことのない作品に思える本である。

10 古典とは古代の護符に似て、全宇宙に匹敵する様相をもつ本である。

11「自分だけ」の古典とは、無関心ではいられない本であり、その本の論旨に、。もしかすると賛成できないからこそ、自分自身を定義するために有用な本でもある。

12 古典とは、他の古典を読んでから読む本である。他の古典を何冊か読んだうえでその本を読むと、たちまちそれが[古典の]系譜のどのあたりに位置するものかが理解できる。

13 時事問題の騒音をBGMにしてしまうのが古典である。同時に、このBGMの喧噪はあくまでも必要なのだ。

14 もっとも相容れない種類の時事問題がすべてを覆っているときでさえ、BGMのようにささやきつづけるのが、古典だ。

割合よく聞く定義もあるし、定義間で内容上の重複はあるし、追加の説明がなければ意味を成さないような定義もあるのだが、その洗練されてない感じがいい。気になる人は本書を読んでみましょう。